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執筆者の写真Furuya Hirotoshi

美を感じ取る力

美を感じ取る感度が、価値と哲学を創造する。


僕がチェコからマスタリングを依頼された、非常に美しいミュージックビデオ。正にヨーロッパを代表するような仕上がりになっており、イギリスも含めエンターテイメントの中心と思われている英語圏とは、明らかに異なる仕上がりになっている。美しさを説明するには、最も相応しい一作。果たして、日本でこのクォリティを生み出すことが出来るだろうか?

ここのコラムやブログを通し、日々自らの考えてきたことや感じてきたことを、具体的に立体感ある文面にすることで、随分と考えていることを形にでき、更にはその考えに対しての具体的な説明付が可能になったと感じています。輪郭のはっきりしない、音や美という言わば抽象的な定義をより立体的にするためには、相当量の論文にも似た説明文を書かなければ、それが現実の世界で生き生きと輝くことはなかったのだと思います。セミナーの講師であれ、音楽院で指導させて頂く機会がある折にも、これまでかなりの文面を書いてきたことで、ある程度誰にも分かりやすい説明が可能になってきているのではないかと思っています。 そして今回は更に話を進めてみようと思いますが、この度は”美”というものをどう感じ、如何に扱うか、そしてどれ程の深度で理解が及ばなければ、一流の音楽が形成できないかについても言及してみたいと思います。 音楽の本場といえば、やはりヨーロッパであることは誰もが何の疑いの余地もないことでしょう。多くの偉大な作曲家を排出し、それに纏わる形で演奏家、器楽メーカーなどが素晴らしい歴史を刻んできており、現代でも誰もが憧れる芸術性溢れる創作物を創出し続けています。これは長い伝統から来るものなのか?貴族社会のなせる技なのか?若しくは、彼らは特権階級であるのか?様々なことを考えますが、兎に角、ヨーロッパへ行ったことのある方であれば、街の美しさに先ずは心を奪われることは間違いないでしょう。空港から15分も走れば、大凡おとぎの国が待っているというのが、ヨーロッパ各国へ行った折の印象です。街自体が、正に芸術の宝庫であり、一つ一つの石細工にしても、ちょっとした町中にあるオブジェにしても、ありとあらゆるものが感性を揺さぶることは間違いありません。 しかしこれらは、偶発的に彼らが生み出したものなのでしょうか?何となく過ごしていたら、ああいった美しいものが時間とともに生まれてきたのか、若しくは学問を基礎とした何らかの強い思想などの背景から、芸術的という分野が確立され、それが市民にまで行き届いたのか?あるいは他の原因が有るのか?などを考えてみることは、非常に有用であるかと思います。この事実を照らし合わせながら考える時、最終的には世界で通用する芸術や美というものを、日本発でも作り上げることが出来るのではないかと考えています。 先程の偶発的という要素は、彼らの中に埋め込まれた『美しい』と感じる能力自体が、DNAの中に強く刻み込まれていることは間違いないでしょう。日々目にするもの、感じる物自体が民族の感性を作り上げ、それを何世代にも渡り受け継ぐくことで、この『美しさ』というものの土台が日本人の価値観と明らかに異なることは確かです。例えば、年若いミュージシャンたちを例えに出してみると分かりやすいのですが、特に何ら影響を受けていない世代のミュージシャンたちというのは、先入観がないので一つの指標とすると分かりやすく説明できるかと思います。 過去の経験なのですが、アメリカからミキシングやマスタリングを受注したことがあります。ミュージシャン自らシンセサイザーを駆使して、バックバンドの音源を作り上げ、自らはギターを弾くというスタイルでした。勿論金銭的に考えればスタジオ環境というレベルではないはずですから、自らで作ったリファレンス(参考音源)の音源は、プラグインでとことんやり込んだという未完の雰囲気が漂っていました。しかし、この送られてきた未だ完成を見ていない音源からは、確実に欧米人の価値観というものを感じ取ることが出来、この年令の人間たちが、独学でここまでの感性を持ち合わせているということに驚愕した記憶があります。ドラムのキックやベースで構成された低音の扱い、中域の太くも非常に美しくワイド感のあるギター、そしてクリアに響き渡るメロディーラインとともに、種々の楽器が独立して聴こえてくる高音部。これらの要素は、残念ながら現代の日本の音楽業界では聴くことの出来ない価値観です。 僕のミキング・マスタリング代金を支払うのもやっとな状況のアメリカ人の若者が、自らの限られた機材でやれるだけのことをやり送ってきた音源は、どういうクォリティであろうと、ハッキリと『こういう音にする』という意志が見られるとともに、強い美意識というものを感じ取ることが出来ます。そして根底には、よくトレーニングされている視野があり、最高の音楽・芸術に触れてきてきているであろう、非常に高い価値観の構築が出来ているようにも思えました。 この場合は、ヨーロッパではなく北米での例となりますが、価値観の違いはヨーロッパと北米でも感じることです。しかし、それはあくまで価値観の違いに留まっており、明らかに音楽の形成に必要な要素を欠いているということではありません。 北米もやはりヨーロッパからの移民ですので、彼らの中には受け継がれているDNAがあり、それをアメリカ大陸ならではの味でアレンジを施したと言えるかと思います。 では何故、こうした美意識というものを形成するのが得意な人々というものが居るのでしょうか?ヨーロッパから引き継いだものが有るにせよ、アメリカは独自の文化を形成し現在に至っています。そして新たな価値観を世界に対してディストリビュートし、現在では世界のリーダーとしての地位を得ています。 これまでに様々な観点から述べてきましたが、この違いの要因の1つは、美を意識する感度の強さと定義できないでしょうか?そもそも感じることが出来なければ、真似することも出来ないですし、学ぶことも出来ません。全ての出発点であるこの芸術への感度というものこそが、何をするにしても重要であり、様々なトレーニングやメソッドよりも、まずは取り組まなければならない事柄の一つなのではないでしょうか。そして、その美への感度が探究心を生み出し、楽曲の構成や音の構成への興味を最大化させることで、先人達の残した素晴らしい作品を徹底的に研究する熱意も生み出されるはずです。この感度から発生する感性というものは、習うことではないかもしれません。持ち前かもしれませんし、それを才能と呼ぶ人もいるかも知れません。しかし、全ての出発点であるこの部分について意識しなければ、着眼することすらせず、何も気付かずに音に接し結果的にマニュアルをこなすように音楽を扱う可能性もあります。現在国内の教育からエンターテイメントまで、音楽産業全体が陥っている、極端に内向きなドメスティック化と、欧米にどうにも追いつかない芸術的感性というものは、先ずは全く異なる視点を持つことから改善が始まるのではないでしょうか。 そして僕自身が国内と欧米の作品それぞれに参加していて経験することですが、予算も同じくらいの中で収めているはずなのに、センスが異なるが故に大きく作品自体のクォリティが異なってしまうことがあります。いくら音や作品のクォリティが違う違うと言って大騒ぎしても、それが理論的にどういう形で異なっているのかを考えない限りは、答えが出るわけがありません。 今回は、その1つの解決策として、『美への感度』という物自体が、価値観を形成することで哲学が生まれ、その哲学の上に形成された最終的な音を司るのではないかと定義してみました。以前の記事にも書いたことがありますが、どうしても音楽・エンターテイメントというものがアメリカを経由して入ってきたヨーロッパ文化であり、その文化を研究するところから始めったが故の歪みではないかと考えられます。 その歪みをどう覆して行くのか、もうその時期にはとっくに突入しているはずです。しかし、一向に改善の余地がないかなかで、幾らもがいても答えが出ないという状況を長引かせるわけには行きません。物事を、根本から見つめ直すことは、その原点を見直すことにもほかなりません。今必要なことは、美への感度を上げることです。自分自身は、美を最大限感じ取ることで、ヨーロッパメーカーからエンドースメント契約を取得してきました。可能性は、ちょっとした視点の切り替えと、絶え間ないトレーニングで最大化出来るはずです。

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