日本で良いとされるものが、果たしてグローバルで通用するのか?
ドイツelysia社と、本国エンドースメント契約の折のワンショット。右がCEOであるドミニク、左がプロダクトマネージャー。この折に話し合われたmpressor を16ch全てをSSL XL-DESKにインストールする案は、elysia車内でも大絶賛を受け。NAMM SHOWでmpressorは、2018年Awardに輝いた。
欧米で学び、そして仕事を通して構築できた1つの考え方に、 『日本では世界で聴いたことのない、悪い意味での独特の音がする。結局のところ、本国で音を聞いたことが無いか、そもそも聴きどころの勘所が違うのではないか。それであれば、全てを覆し、根幹から音そのものの価値を再構築する必要がある。』 というものです。先に述べましたように、欧米から帰国するたびに楽器や楽音における音の違いに驚かされます。特にメーカーとのエンドースメントという大役を担わなければならない立場になり、世界中のレコーディングスタジオやマスタリングスタジオが競争相手となると、知識や機材の選定におけるセンス、並びに実際に作る音において、どうアドバンテージを取るかは強烈な競争を勝ち抜かなくてはいけないことを意味します。常に現状を否定し、常に新たなアイディアや方向性見出さなければ、そう簡単には地位を築くことは出来ません。 特にエリート意識の強い欧米社会では、自身の能力というものを露骨に試されることが多々あります。例えはクライアントからは、 『マスタリングのエリート界に君臨する、アビーロード・スタジオのマイルズ・ショーウェルは、こんな音は作らない』 と真っ向から否定されることもありますし、その勢いで解雇されることも決して珍しくはありません。要は音作りに対しての評価に国柄は加味されず、世界最先端のスタジオやエンジニア、プロデューサーたちと比較され仕事を受注することになります。これが自らが携わる世界のグローバルスタンダードであるスタジオワークであり、甘い感情論や生易しい価値観では、直ぐに海の向こう側から”解雇”という言葉が踊るメールが届きます。日本では余り考えられないことかもしれませんが、激烈な競争を演じる世界最先端の音作りとは、ここまでシビアであり能力主義です。 例えばこの世界に、日本の価値観を持ち込んだらどうでしょうか?再三に渡り、日本では本場の音のしない音源、楽器であることを主張してきておりますが、これらを強引に持ち込めば『無関心』という最も手厳しい反応を示されると思います。 事実、日本の音楽や楽器に対して欧米は無関心であり、第一線のアーティストやプロデューサー、エンジニア並びにメーカーは日本のことを殆ど知らず、唯一通じた話は『マンガ』という文化くらいのものです。 ここまで方向性が異なる本国での音の価値観ですが、結局のところ現在『日本で良いとされる』、若しくは一応のところ『最高峰』とされるものの殆どは、国内で独自に編み出された感性であり、それが世界で通用するという次元には到底及ばないということを意味します。通用しているのであれば、日本は独自に進化した感性で勝負し、本場ヨーロッパでの地位は確実なものとなっているでしょうし、海外から音楽文化における仕事の受注量も桁外れのはずです。しかし、現在はこれと真逆の状態であり、音源は欧米で制作し国内で販売するという手法が用いられることは耳にします。 ここまで歴然たる事実が存在するわけであり、これを1つ2つ何かしらの形で。より本物に近づけようとしても、感性という最も重要な根幹が違う方向を向いている以上、世界の舞台で通用する音、楽器の生産、音場の調整などは不可能なのではないかと結論づけています。実際に自ら経験することとして、講演会やセミナーなどでお話する折にも、その反応というのは日本独自の視線を感じることがあり、もっと深化されるはずのディスカッションやカンファレンスは、表面的な部分をなぞって終わることが多々あります。その後の観覧者から寄せられる質問なども、かなり異なる方向を向いていることが多く、『音のプロであっても、本来感じなければならない奥深い感性』を働かせること無く、表面的な質疑応答で終始してしまうことは珍しくありません。若しくは小難しく言葉で説明しようと、様々な語彙を用いて話しかけてはきますが、結局のところは実質的な実績に乏しく、その上相対的な理解が及んでいない故に、それはあくまで『自らの感じたこと、自らの感性を主張する』に過ぎない行為を脱することが出来ていないとも感じさせられます。 これらの経験から、導き出せる回答としては、結局のところ全ての判断材料になっている、日本における『音の感性・価値観が、あらゆる面での勘違いや理解不足から形成されており、専門家と呼ばれたりトップの位置に立っていようとも、その発言の殆どが本場では通用しない、非常に幼いものばかりである』というものです。 そもそも、日本で演じられる音楽の多くは大衆芸能が大半であり、芸術の域に達するものは殆ど存在しません。欧米では、ロックやポップスのジャンルでも明らかに芸術の領域に達する演奏や楽曲が存在しており、自らの芸以上に作品としての深化を徹底された音楽を聴くことが多々あります。例えば、ビリー・ジョエル、TOTO、エルトン・ジョン、彼らは明らかに芸術を構築し、常人では理解しがたい極めて高い芸術性を感じさせる作曲、並びに演奏を行います。これらに並ぶようなアーティストが、これまでに日本で出てきているでしょうか?若しくは、今後そうした可能性は日本にあるのでしょうか?現在は、将来においてもこのままの現状では、日本からこうした芸術性を全面に押し出したアーティストを排出することは不可能でしょう。それはプロデューサーやエンジニアにおいても言えることで、今後日本文化の中で欧米に追い付く音楽が形成されることは、現状ほとんど不可能と定義付けています。 世界とは異なる感性、価値観を構築してきた日本の音楽界が、これから行なわなくてはならないこととして、先ずは絶対的に欧米・世界で通用する人材を数多く排出することではないかと思います。金銭的な投資や、それをトレーニングする人材も必要となりますが、先ずは『正しい、グローバルスタンダードの音の感性・価値』を構築しなければならなく、もうこれ以上表面的な理解に留めるような失敗は繰り返してはならないと思えてなりません。全てのレベルが上がることで、必然的に今までの勘違いや洞察力の不足は淘汰され、より高い次元で人員は構成され、更にそこで再度淘汰が行なわれるという健全な競争が発生します。 これらの循環を生み出さない限り、日本は何時まで経っても欧米・世界とは大きく突き放された音楽レベルに留まることとなり、それは聴衆側のレベルを押し下げることにも他なりません。 加えて、欧米文化の底力を示す内容として、音楽や楽器に携わる人間たちの質の高さも付け加えることが出来るでしょう。私が付き合いのあるアメリカのピアノディーラーのCEOは、ミネソタ大学で音楽を学び、シカゴ大学で数学の博士号を取得した人物です。シカゴ大学の数学と言えば、全米で1.2位を争う天才たちが集まるコミュニティであり、アメリカのトップであれば実質上世界のトップでもあります。また、不動産の投資家でもあり、こうした世界的にも最優秀の人材が音楽文化に携わっています。 更に知り合った素晴らしいバックボーンを持つ関係者と言えば、シューマン音楽院出身のベルギーのマスタリング・エンジニア、ウィーン少年合唱団出身のオーストリアのピアノ調律師、ドイツの名門大学で工学博士の学位を持つスタジオ機材メーカーのCEOなど、その層の厚さたるや日本が全く手の届かないところに居ます。こうした社会的背景も加味しながら、『音』そのものの再構築を行うことは重要であり、着眼点、視点、哲学全てを網羅できる、有能な人材育成が急がれます。
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